08.17.01:53
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02.17.03:09
踏み出す一歩。
踏み出す一歩。
足を立てる。
毎日誰に聞かせる為でもなく、
ただただ歌うことを練習する。
誰かの為に歌っていると、自分の存在意義について何度も問うだろう。
“誰かの為に歌っているから、私在り。
しかしながら、その『誰か』がいなくなったら?
誰もいないのに私は歌うの?
ねぇ、私なの?”
緩い存在意義に一喜一憂する若い芽よ。
あぁ見えぬ不安よ、衰退する自らの身体よ。
なんと人間らしく、愛らしいのか。
私は結局歌うことと描くことが好きなので、やっぱりそうする。
誰にも見られなくても、誰にも振り向かれなくてもやっぱりそうする。
そして自分の声がさらに向上することが私の中の幸せとする。
ただ、それは必ずしも万人に於ける向上とは限らないという前提がある。
批判の多さは人気の印とは言うが、
それにも一喜一憂するだけの若い曖昧な自信は、
やはり誰かの為に歌いたがっている証拠だろう。
技術を向上させればさせるほど、
誰かの為に、誰かの為に使いたくなる。
だけど、誰もいなくてもやっぱり歌う私は歌うのが好きなんだろう。
未熟だとか曖昧だとか考えることはとても安易だけど、
それを行動に移せるということは、必ず苦痛を越えなければならない。
届かない幸せと、届く苦しさ。
届く幸せと、届かない苦しさ。
自己完結型と、外向的苦痛。
まぁ結論を出すなら、ほんとに求めるものはそこには無いということだ。
人気過ぎた人々がどんどん人から離れていくように、
人気の無さ過ぎた人々が社会の冷たさを感じるように。
全てはここに終結する。
“やっぱり、歌うのが好きだから。”
思考は安易なり。
行動経験共に未熟でありながら、想像し得るのはやはり人間からか。
但し、皆がそこに行きつくとは限らない。
ある人はここで云う未熟という段階で幸せだけ捥ぎ取っていくかもしれないし、
ある人は未熟故に只々苦痛だけ捥ぎ取っていくかもしれない。
あぁ人生とは儚きかな。
どちらかしか経験し得ないのだから。
どちらも経験するということは、貴方は忘れ去られたことを嘆き、
やはり貴方は未熟ということなのだ。
あえてこれらを全て避けて通りたいなら、
“誰かの為に歌うな。”
皆さんに幸せが増えますように。
皆さんに素晴らしい目印が現れますように。
貴方は真っ直ぐに進め。
彼は呼んでいる。
そう偶像化した彼が、私の中で神聖化し、誰も知らないところで彼とは違う彼として、
私に現れ、目印を出す。
その前へ、何度も導かれ、進まれんことを。
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